昭和43年4月8日 夜の御理解 テープ№43-058-A-2
中村良一
今朝の御理解に、大天地に対する小天地と。私共、人間氏子の事を、そういう風にも、表現されております様に。大天地の様相が、小天地の心の上にも、そのままのものがあるという事なんです。特に、今日は、その、大地の事についてから、今朝の御理解を頂きました。それは、今朝の、私のご神夢の中に現れておる、その事をテーマにしてからお話をしたんですけれども。とにかくその、私どもの、心を治めるという事。まぁ今日は、今晩は、今朝、大地の事について頂いたから。天の心の事について、皆さんに聞いて貰いたいと思うけれど。今朝の御理解を、もう少し聞いて貰うとね。
今朝、私はあの、お夢を頂いた。それが、何処にか、地鎮祭に行かなければならない。祭主が、ある先生。私が副祭主を務めるようになっておる。そして、その、お祭りの贈与万端が全部、ここから出さなきゃならんごとなっている。その、祭主を仕えるという先生が、もう大変な、大げさに、大祭のようなその、風にせにゃいけんと言われる訳。それで私は、そげん、地鎮祭ぐらいの事に、金かけんでも、自分が出さんもんじゃけん、あげなこつばっかり言うちからといった様な、思い方をしとったんです。そしたら、地鎮祭に行くと言うので、高橋さんの車が迎えに来てくれた。それで私は、それに乗せて頂いてから、高橋さんちいや、ほんに、高度なお取次とかという風に、御理解頂いた事があったから、この事をお取次も頂かんでおったと思うて、お取次を頂かせて頂く心持にならせて頂いたら。今年、年頭に、私が、皆さんにも申しましたように、今年はもう、いよいよ、豊かになろうと言う信心を、こりゃもう、寝ても覚めても、私の心から外れないものなんだけれども。夢の中では、それを豊かに受け切って無い。この人が、汚いもんじゃから、お下がりを、自分が全部貰わんならんけん、出来るだけお供えをさせようと思いござるといった様な頂き方をしてる訳なんです。本当に、こここそ、豊かに頂かんならんとじゃったたいとこう思わせて頂いた時にですね。どこからか、声がしてから、地鎮祭は済んだというお知らせを頂く。ですから、私どもの心の中に、天の心もありゃ、地の心もある。それが、我情我欲で曇っておるだけの事。だから、私どもの、この大地、やはりあの、地鎮祭、ね。地を静めたり清めたりする事に、地鎮祭が要る様に、自分達の心の上にも、やはり、地鎮祭が必要だと思う。ほんなら、その、心を清めるとか、心を清めにゃ、心を清めにゃと、こう言うけれどもです。どういう風にしたら、心が清まるかと言うとです。例えば、そういう、理不尽な、またその、様々に、難儀を感ずる時にですね。私共の、心がですね。それをその、難儀に感じたんでは清まらない。豊かな心でですね、それを受けた時に、地鎮祭は済んだという事になる。お互いが、心を清めにゃ、清めにゃと言うけれど、その、清める方法を知らない。どげんして清まるか。さぁ、清めにゃ清めにゃと言うただけで、清まる筈はない。それを、心が清まるのは、そういう様な、普通では受けられないような事を、豊かな、大きな心で受けた時に、もう地鎮祭は済んだという様に。ですから、自分達の心の上にも、その地鎮祭が必要であるという事を、今朝から、色々、まぁ、いろんな角度から頂いた。
ほんなら、私共に、天の心と言うのが、やはり、私どもの、心の中には備わっておるのだけれども。それが、曇ったり、汚れたりして、天の心を心として表す事が出来ない。天はもう、限りなく与えるもの。限りなく恵むもの。もう天地は、われわれ、人間だけではない。生きとし生けるものの上に、もう全力を挙げて、無条件に奉仕しておる。それが、天の心なのだ。だから、私共も、段々、限りなく美しゅうならせて貰い、改まらせて頂く所から、天の心が使えるようになる。そこに、天地足ろうたお徳と言うのが、頂かれるのです。天は、限りなく与えるもの。しかも、無条件、無条件に、生きとし生けるものの上に奉仕する。それが、天の心である。私達が、信心させて頂いて、無条件の奉仕をする。この無条件の奉仕こそが、私は、また神様も、無条件で、おかげを下さる事の出来れる、私は、段階だという風に思う。お互いがその、限りなく、限りなく奉仕する。そこんところは、一つ、分からにゃいけん。
今、御祈念にかかる前に、豊美が、ここで、お届けに来た。それで、泣きじゃくってからしとりますもんですから。何か、どうしたのかと、私は思うておった。そしたらその、泣きじゃくって言うんですよ。声が止まったとこう言うのです。いわゆる、声が止まったから、どうしようか。大祭前の、今、典楽会の方達が、連日、猛練習をやっております。吉備舞がありますから、その吉備舞の(じ?)をやっておりますから、毎日もう、一生懸命、おらんでるもんですから、もう、喉から、全然、声が出らなくなったんです。楽員としてですね。やはり、声が出ないという事は、致命的なものですから。それを、一生懸命に、思えば思うほど、やはり、泣きたくもあるだろうと、私は思ったんですけれどもね。その事を、神様に、お取次をさせて頂きましたらね。ご神酒と言う字をね。もう、崩せるだけ崩して、草書で頂くんですよ、ご神酒と言う事を。御神酒です。どういう事だろうかと。いわゆるその、一生懸命、神様にお供えをするためにですね。いわゆる、舞なら舞をお供えする。その、歌なら歌をお供えするために、一生懸命に練習しておる。そしたら、声が止まってしまった。けれども、やはり、それは、有難いんだという事なんです。私はあの、ご神酒と言う、御神酒と言う字を崩して、いわゆる喉を崩してしもうた。声を崩してしもうた。それでもやはり、御神酒は御神酒だと。やはり、おかげなんだ。神様にお供えをするために、一生懸命に、いわゆる、天の心である。もう、出るだけを出そうとして、一生懸命奉仕した。ところが、もう出なくなった。いわば、喉が崩れてしもうた。けれどもやはり、有難いんです。ここんところが分からなければいけない。奉仕し尽くした。もう、これだけの事をしたんだから、後は仕方が無い。出らない事は、神様もご承知だから。これではいけない。そこんところを出そうとする。それが真心。それが、無条件の奉仕なんだ。
これは、私、天理教の、常岡先生のお話を頂いた時に、聞いた話なんですけれども。ご承知のように、常岡さんといや、もう、天理教きっての、お話の名人です。おそらく、東京の日比谷の公会堂でですね。マイクを使わずにお話をされるのは、この人一人だろうと言われておる。もう、一時間話しても、二時間話されても、段々、声が澄んでくるち言う。しかも、あの広い、日比谷公会堂でですね。マイクを使わずにお話が出来るという。初めから、そうではなかった。もうそれこそ、喉から血が出るようになった。喉から、いわゆる、声が止まってしまった。そこんところを、神様にお願いして、一生懸命に出させて頂きよったらです。もう、いくら話しても、いくら話しても限りが無い。尽きる事が無い。しかも、段々、段々、時間がたってくるに従って、澄み切ってくるち言うてある。こらまぁ、天理教的に言われる訳なんです。お供えでもそうだと。さっさとお供えせよ。もう、無くなったから、もうこれで良いちいう事はないち言う。そこんところをね。お供えしきっていく所から、無尽蔵に、限りないお供えが出来るように、おかげが頂けるんだという様なお話を聞いた事がある。ね。もう天は与えるもの。私共の、心の中にも、天もあれば地もある。地は、時々、地鎮祭をしなければならん。天はもう、ある場合には、止まってしまうような事もある。けれども、もう、これで良いとしたら、もうそれまでなんだ。そこんところを、これで済んだとは思いませんと言う生き方でですね。一生懸命の願いをかけて、させて貰う所からです。不思議に、それが出てくるようになる。
これは、ほんなら、私の修行中の事を言うても良いです。もう、逆さに打ち振ったっちゃ、なーにもない様な時代であったけれども。さぁ、親教会の大祭だ。何か神様ごとだ。御本部参拝だ、と言う時にはですね。こらもう、絶対のものだ。もう無い事は、神様が知ってござるけん、と言わずにです。一生懸命の思いで、おかげを頂かせて頂きよったら、やはり、思う存分な事は出来ないにしても。思うだけの事ぐらいは、おかげ頂きよった。そこからです、現在ここで、合楽で、無尽蔵のおかげと言われておる、その無尽蔵のおかげに繋がってきたのだと、私は思うです。何でも同じこと。信心でも、一生懸命にさせて頂きよりますとですね。一生懸命に、させて頂きよりますとです。もう、それこそ、喉が枯れるように、止まるように、もうおかげがこれで、止まってしまっておるのであろうかと。これだけ信心するのに、どうして、このような事がという様な事があるんです。これは、ちょうど、出しに出しきった、奉仕しきった時に、もう、枯れて喉が出らないように、声が出らない様なもんです。おなじ道理です。だから、信心しよったら、声が出らんごつなった。かえって困るようになったと言うて、止めたらもう、それまで。せっかくの、無尽蔵のおかげに繋がる事は出来ん。無尽蔵のおかげを頂かせて頂くためにも、ここんところを、辛抱しぬかせて頂いて、そこんところをね。これで済んだとは思わんと言う生き方でです。いよいよ、奉仕の心に、元気な心を持って奉仕する。天は、そういう様な心を、天は備えておられる。無条件に奉仕する。しかも限りなく。私共の、やはり、小天地と言われる。天もやはり、限りなく奉仕すると言う、この気持ちを忘れてはならん。もう出らんごつなったけん、奉仕は、これで止めていいという事はない。そこから、すがっていくところに、今度は、いよいよ、限りの無い、無尽蔵の奉仕が出来るおかげに繋がる事が出来る。これはもう道理なんだ。
今日、豊美のその、お届けを聞かせて頂いて、それを思うた。もう、大祭を前にして、声が止まってしもうた。そら、泣きたいごとあろうとこう思う。一生懸命ですから。私はあの、本当に、泣きたいごと、一生懸命に思えると言う事は有難いと思う。一生懸命、稽古しよったら、喉が止まったっじゃから。神様も、これはご承知だから。もう、これで良いという事にせずにです。そこんところに、お取次を頂いてです。出らんごつなった所から、もういっちょ、頑張らせて頂いて、それこそ、血を吐く思いで、一つ、本気にならせて頂く所からです。限りない声に恵まれる。これが、天の心なんです。
今朝から、地の心を心として、いわゆる、っ神様の心を心としてという事はね。天地の心を心として、自分のこれに頂くことなんですよ。ほんなら、お互いが、天地の心を備えておるのですけれども、我情我欲で一杯ですから、その天地の心を、もう曇らせてしまっておる訳です。それを、信心によって清める。信心によって祓わせて貰う。そこから、神様の心を心としての、生き方が出来る。そこに、いわゆる、無尽蔵と言うかね、無限大のおかげに繋がってこそ、人間の真実の幸せというのはあるのです。そんためには、一遍、そこに止まるような事があっても。先ほど、私が、頂きます様に、御神酒という字を、もう崩せるだけ崩して、御心眼に頂くんですよ。もう、喉が止まって声が出らない。それは、ちょうど、御神酒という字を、崩して書いた様なもの。やはり、御神酒は御神酒だから、神様が、それを受けて下さる。喉が、例えば、出らんでも、心の中で歌いよっても、それを、やはり、真心の声として、歌として受けて下さるに違いはない。もう出らんから、これでと言うのじゃなくて、そこんところを、もう一つ、私共が、頑張り抜かせて頂く所からです。また、無尽蔵のおかげに繋がる。また、初めて、もう、幾ら歌うても、幾ら歌うても、声が枯れもしなければ、切れもしない、止まりもしない、いわば、いよいよ、ますます、済んだ声が出てくるようになるのである。これはね、他の、何の道理にでも繋がるのです。体力でもそうです。声でもそうです。例えば、金銭でも同じ事です。それを、途中で止めるような事をするから、後が入ってこんのです。これはもう、天理教の、常岡先生の話を頂かなくても、やはり、それである事は、私自身が体験しておることなんです。そして、限りの無い、無尽蔵なものに繋がっていく事が出来るでしょうが。そういうおかげを頂くためにもですね。一つ、天の心を心として頂きたいと思う。地の心を心として、自分の心に備わっておるのですから、それが、現わせれるおかげを頂きたいと思う。どうぞ。